連合の理念・使命
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連合の理念
連合の使命
連合の理念
日本バプテスト教会連合は、このような歩みを通して(「連合の歴史」を参照)成長発展してきました。現在全国に五つの地区連合を持ち、信徒の主体的活躍も目立つようになってきました。21世紀に向かうこれからは、宣教団との緊密な協力のもとに開拓伝道をさらに推進していくとともに、米国や東南アジアの国々への世界宣教にも力を注いで、主の宣教命令実現のために努力します。
(1)連合は聖書信仰に立っている 私たち連合の信仰の礎は聖書信仰であり、聖書の権威を尊重し、聖書に基づいた教会生活と日常生活を強調します。今日、聖書の権威があいまいにされ、教会は霊的生命を失いつつあります。そのようなとき、私たちは聖書信仰に立った宣教と生活を大切にしなければなりません。また、聖書信仰に立った交わりと協力を大切にし、福音的諸団体との友好関係を育ててゆきます。
(2)連合はパブテストである 私たち連合は、パブテストの信仰の特質を持つものであり、敬虔主義的な流れの中で形成された信仰の遺産を継承しています。霊的な品性にあふれたキリスト者の育成を重視し、新しい時代に生さる在り方を追及し続けてゆきます。他のパブテストの諸団体および近い信仰の友との交流と協力によって、良い信仰の遺産を次の世代に伝えてゆくように努力しています。
(3)連合は地区教会を尊重する 私たちは連合は創立の時から、健全な教会観の確立と自立教会の育成に努力してきました。教会こそキリストの花嫁であり、地上における唯一の神の家であるからです。地区教会の自立と成長こそ、健全な宣教の前進となると信じます。その教会は救われた信徒によって構成され、したがって信徒の成長と活躍こそ教会成長の鍵です。また、私たちは地区教会の主体性と自治を尊重しつつ、積極的に協力します。
(4)連合は協力関係を大切にする 私たち連合は、バプテストの信仰に立っていますが、また他の諸教派との協力関係を大切にします。自らの信仰に確信を持つことは、決して排他的・独善的になることではありません。そのゆえにJEA(日本福音同盟)、日本福音主義神学会等との協力関係を大切にし、日本および世界の福音派諸教会の健全な発展のために貢献します。
(5)連合は社会生活を強調する 私たち連合は、信仰の健全な成長のために、規則正しい教会生活とともに社会生活を強調します。積極的に社会的責任を果たし、主の業としての社会福祉に努め、国家や歴史に責任を負う者となります。そのことによって、現実の社会生活を通してキリストを伝え、神の栄光を現してゆくことができるからです。そのためにも、神を中心とした信仰の確立が最も重要であります。
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連合の使命
日本パブテスト教会連合は、教会完成のために教会連合を組織することが最良の方法であると信じて結成されたのです。教会の完成こそ、連合の使命であります。
(1)教会の完成とは? 教会の完成には三重の意味があります。
第一は、私たちの成長です。教会の主はキリストですが、教会を構成しているのは私たちです。私たちキリスト者が、霊的にも社会的にも成長することが最も重要です。キリストのかたちに似せられ、祝福された社会生活を過ごすようにならなければなりません。
第二は、教会の成長です。連合に参加しているすべての教会が、内容的にもまた教勢面においても充実し、成長してゆかなければなりません。キリストにある交わりと賜物を生かした奉仕が、それぞれの教会をあらゆる意味において成長させてゆくのです。
第三は、キリストの体の完成です。それぞれの教会が成長することによって連合は完成し、連合がその特質を生かして成長することによってキリストの体である教会は完成するのです。そのゆえに、連合は閉鎖的になることなく、聖書信仰に立つ諸教派とも積極的に協力するのです。
このように、連合は教会の完成を使命としていますので、教会を重要視し他の諸団体との交わりを大切にします。
(2)連合のヴィジョン 連合はその使命を達成するためにも、まず連合自身がすべてにおいて成長しなければなりません。自ら特色を持ちながら成長している者でなければ、他との交わりも貢献もありません。連合は教派主義の奴隷ではありませんが、自らの信仰の特質と遺産を大切にしながら教会形成に励んでゆきます。また、最近までは関東、東海、関西、紀伊半島に教会が散在しているだけでしたが、やがて全国の主要都市に教会をつくるヴィジョンに着手しつつあります。
教会を中心にした伝道だけではなく、文書伝道や放送伝道も、すでに実行しています。その他の領域における伝道活動を展開するように考えています。
他の諸団体、特に日本における福音派の諸機関と協力し、その育成のためにできるだけ貢献したいと考えています。
全世界に対する福音宣教のヴィジョンを持って海外宣教師を積極的に派遣するとともに、BGCとその宣教地の教会やJOMA(日本海外宣教協力会)とも積極的に協力したいと考えています。
これらの計画は、誠にささやかなものですが、全数会員の積極的な祈りと努力がなければ実現できません。イエスは、「群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。その時、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい』」(マタイ9:36-38)。
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連合の歴史
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日本バプテスト教会連合は、BGCから遣わされた宣教師の働きによって生まれた教会によって結成されたもので、その信仰の特質を遺産として受け継ぎ、発展してきました。歴史は長くはありませんが、着実に成長を続けており、これからの発展が期待されています。
(1)開拓時代
1948年7月、BGCは最初の宣教師F・B・ソーリー師を日本に派遣しました。ソーリー師は、戦後の混乱から立ち上がりつつあった東京の街角で、エネルギッシュな伝道活動を始めました。続いてH・ヤンクエスト師、G・スワンソン師、D・ビョーク師、E・ノードストロム師、ファンク師、ラム師が来日され、伝道と日本語の勉強に励まれました。さらに、J・バターソン師、H・スコーグランド師、S・リンドバーグ師も来日され、ただ東京だけではなく和歌山県や三重県において積極的な伝道が始められました。
1957年には泉田師が東京神学塾を卒業して練馬教会の牧師となり、翌年には横山師が東京中央教会の牧師に就任され、しだいに日本人牧師も加えられるようになりました。また、J・ウィルソン師、C・ワルパート師も来日され、伝道の領域は広げられてゆきました。その結果、東京には練馬、日本橋、石神井に教会が生まれ、和歌山県と三重県には和歌山、印南、御坊、白浜、大島、勝浦、紀宝町、阿田和、木ノ本、尾鷲にクリスチャンのグループが生まれました。
また、それらの教会のために、三ツ橋師、江見師、飯野師、白井師、藤原師、神田師、野中師、大串師が次々と牧会に当られるようになりましたが、飯野師と神田師は都合により、野中師は病気のために間もなく退任されました。
1963年の教職者合同研修会の時、教会連合を正式に発足することが話題に上り、いろいろな立場からの意見がありました。しかし、話し合いの結果、連合をつくることでは一致し、その準備に乗り出すことになりました。
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(2)連合の誕生
その時、設立準備委員会が設けられ、委員長に泉田師、委員に横山師と白井師が選ばれました。バプテストの信仰の特質を生かしながら他の諸団体についても調査し、連合の在り方と組織が研究されました。
そこで特に問題となつたことが三つありました。第一は各地区教会の主体性と自治を基本理念とするバプテスト精神と一つの連合体をつくることとは矛盾しないかという問題で、それは教会の連合体をつくるのであって決して矛盾しないという確信に至りました。第二は健全な教会観を確立し自立教会を育てる課題で、宣教の理念と教会観についてはっきりしたコンセンサスをつくる必要がありました。特に福音の伝えられていない地方に福音を伝えることを強調する宣教団と、自立教会をまず育てるべきであると主張する日本人牧師の間で大きなギャップがあり、また当時十三あった教会のうち経済的に自立しているのはわずか二、三であり、そのための努力も大きな課題でした。第三は各教会の地域的・経済的格差とそれによる意見の相違の調整の問題で、理解の乏しさによる不安もありましたが、それぞれ達したところを基準としながら同じ目標に向かい(ピリピ3:16)、その上で協力することが確認されました。そして、連合の目的が次のように定められたのです。「この日本パブテスト教会連合は、教会完成のために教会連合を形成することが最良の方法であると信ずる各地区教会が、バプテストの信仰に基づいて協力し、福音を宣べ伝え、参加教会の発展を因って神の栄光を表すことを目的とする」
1964年には、教憲教規草案作成委員会が設けられ、委員長に白井師、委員に藤原師とH・ヤンクエスト師が選ばれました。その委員会で、前述の諸問題を十分に考慮しながら草案が作られました。
1965年9月23日と24日の両日、和歌山市磯の浦にある青年の家において設立総会が開かれ、連合は正式に発足したのです。最初の実行委員会には選挙により実行委員長に横山師、実行委員に泉田師(総務部長)、白井師(伝道部長)、F・ソーリー師(教育部長)、H・ヤンクエスト師(財務部長)が選ばれました。新年度の方針としては、連合の内的充実、外的拡大、信仰の確立が挙げられています。そして、連合は横山委員長の下に、相互理解と協力の推進を基本としながら、その第一歩を踏み出したのでした。
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(3)連合の形成
連合は相互理解のために「連合通信」を発行し、協力事業としては大阪の門真において開拓伝道を始めました。小形師がその働きに従事しすべての教会が協力しました。また、教育事業としてはセミナーを開催し、三冊のテキスト「キリスト教への招待」「パブテスマの準備」「伸びゆく教会」を発行しました。この年に数勢調査も初めて行われ、教会数14、伝道所13、牧師10名、宣教師6名、信徒数351名、献金5,378,051円でした。
1967年の総会においては枚方キリスト教会が連合に加入し、その年には東京においてビリー・グラハム国際大会が行われました。1968年には、連合の長期計画が作られ、清瀬においてスコーグランド師と坂本師によって開拓伝道が始められました。
1969年の総会における教勢報告によると、信徒数497名、献金は11,461,480円となり、順調に発展しています。特に連合をつくって協力したことが、成長発展の大きな力となっていることがわかります。また、この総会において実行委員長に泉田師、実行委員に佐竹師(総務)、江見師(伝道)、スコーグランド師(教育)、ヤンクエスト師(財務)が選ばれました。白井師は門真に転任され、御坊教会の後任に藤井師が就任され、同年秋には稲葉師が楠見(現鳴滝)教会に就任されています。
1970年にはバプテスト世界大会が東京において行われ、世界八十数ヶ固から一万人余りの人々が集まり、すばらしい交わりの時が持たれました。連合は全力を尽くして協力し、大きな貢献をしました。BGCのインドやフィリピンの教会からも代表を招き、交流が進められました。中沢師が牧会しておられる大野教会が加入したのもこの年でした。1971年には横山師と三橋師が渡米してBGCの諸教会を訪問し、泉田師は訪ソしてバプテストの諸教会で奉仕しました。東京地区では荒木師が上福岡で開拓伝道を始め、阪和地区では鈴木師が河西教会の牧師に就任されました。この年の総会で泉田師が実行委員長に再任され、横山師(総務)、三橋師(伝道)、藤原師(教育)、中沢師(財務)が実行委員に選ばれましたが、この時からは宣教団から二名の実行委員を出す方式が廃止されています。教勢は信徒数630名、献金21,141,629円で依然として順調な成長を続けています。
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(4)連合の発展
1970年ごろから日本のキリスト教会は造反運動等による混乱の時代を迎えますが、聖書信仰に立って健全な教会形成に励んできた連合は比較的問題もなく成長を続けてきました。しかし、影響は皆無というわけではなく、教勢面の発展に停滞現象が現れ始めます。そのような中にあって、全数職の一致、全数会の協力、全信徒の参加を柱とした「七〇年代の宣教」計画が提示され、協力伝道が進められました。また、宣教団との協力関係をスムーズにするために「連絡委員会」が設けられました。
1972年には伊都教会に平岡師が、金剛教会に中西師が就任され、特に阪和地区が充実しました。1973年の総会では、佐竹師が実行委員長に、中沢師(総務)、江見師(伝道)、藤原師(教育)、白井師(財務)が実行委員に選ばれました。信徒数は574名、献金27,195,107円でした。また、BGC日本伝道25五周年を記念した晩餐会も持たれ、宣教師の働きに感謝の意が表されました。
1974年、中沢師はベテル神学校に留学され、後任に明田師が就任されました。東京地区は小手指において開拓を始め、小谷師とスコーグランド師が従事されました。1975年には名古屋で初めて開拓伝道が始められ、河野師とミルハウス師が従事されました。新宮教会に大窪師が就任され、連合の教職陣も充実してきました。また、ストックホルムで行われたパブテスト世界大会には、連合から30名も参加しました。この年は連合創立10周年であり、お茶の水学生キリスト教会館において記念大会が行われ、アメリカからD・ビョーク師が来日講演されました。総会で、実行委員長に泉田師、実行委員に荒木師(総務)、鈴木師(伝道)、藤井師(教育)、平岡師(財務)が選ばれました。教勢は、信徒数658名、献金48,784,770円でした。
1976年、中沢師は米国留学から帰国され、明田師は木ノ本教会に赴任されました。東京地区では南浦和で開拓伝道が始められ丸山師とスコーグランド師が従事されました。石井師は練馬教会の副牧師に就任されました。1977年、藤井師(御坊教会)は米国に留学され、後任に木口師が就任されました。教勢面では信徒数は721名、献金は69,431,811円でした。
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(5)連合の充実
連合は、五つの地区連合において積極的に伝道活動を展開し、諸教会は着実に成長しました。さらに、連合は将来の優れた成長のために、多くの面における整備と充実化を進めてきました。
1978人年には、将来の発展に備えて宗教法人化と連合センターの建築のために鋭意努力しました。6月フレスノにおいて行われたBGCの第100回総会には代表を送り、シェアリング・チームは諸教会を訪問しました。9月には、藤井師が真砂教会の牧師に就任され、11月にはK・ベンダー師が来日されました。敦勢は、信徒数818名、献金83,558,825円でした。
1979年、宗教法人化と連合センター建築の準備が進められ、連合の教育と福祉の計画も充実してきました。藤原孝行師の『わかりやすい黙示録』が出版されました。総会においては、開拓教会の土地基金のために5パーセント献金が決議され、実行委員長に泉田師、実行委員に中沢師(総務)、江見師(伝道)、藤井師(教育)、大窪師(財務)が選出されました。教勢は、信徒数887名、献金は97,254,253円でした。
1980年、ビリー・グラハム国際大会が全国六ヶ所において行われ、白井師(全国総務局長)を始め連合の教会と教職は挙げて協力しました。南桜井教会(高野師)が連合に加入し、下総における開拓伝道が始められ、石井七男師が天白教会の牧師に、堀江師が新家教会の牧師に就任されました。江見師の『いのちの電話』が出版されました。10月には連合センターの建築が始まり、11月にはD・バウマン博士が来日され、各地ですばらしい奉仕をされました。教勢は、信徒964名、献金114,827,157円でした。1981年、川口師が木本教会の牧師に就任されました。連合は、さらに東京地区に一、二ヶ所、名古屋で一ヶ所、阪和地区では生駒、中紀・紀南地区では田辺においてそれぞれ開拓伝道を始めるべく、検討と準備を進めています。連合センターが完成し9月13日に献堂式を行いました。教勢は、信徒数1,018名、献金132,127,800円で、順調に成長しています。
1982年、北国師が神学校を卒業して坂戸において開拓伝道を始められました。田辺市においてG・スワンソン師が開拓の働きを始め、連合は意欲的に新しい教会づくりに励みます。この年、第二回日本伝道会議が京都において行われ、約四千名の参加者がありました。教勢は、信徒数1,091名、献金145,577,980円でした。
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(6)連合の成長
連合は、連合センターも完成し、地区連合においても積極的に開拓伝道が行われ、成長への基盤づくりが行われました。決して飛躍的とは言えませんが、着実に成長を続けています。
1983年、中島師は百合ヶ丘において、大窪師が名東南において、R・ソーリー師が奈良県の生駒において、それぞれ開拓伝道を始められました。また、藤原師が下総教会牧師に就任され、小出師の牧会する宇治教会が連合に加入されました。ランクエスト博士を迎えて教職セミナーが開かれました。教勢は、信徒数1,180名、献金178,133,584円で大きく成長しています。
1984年、大野教会と橋本教会が、連合の教会の成長を象徴するように、それぞれ会堂を建築し献堂しました。衛星教会の構想も具体化し、国分寺教会は拝島において、練馬教会は光ヶ丘において、それぞれ新しい働きを始めました。荒木師はベテル神学枚に留学されました。三ッ橋師を団長に、フィリピンへ福音チームが派遣されました。泉田師はドイツ、白井師は中国の教会を訪問しました。教勢は、信徒数1,218名、献金217,156,854円でした。
1985年、泉田師はオスローで行われた聖霊の働きに関する会議に参加しました。清瀬教会は会堂を増築、東京中央教会は改築、金剛教会と南桜井教会は新築し、それぞれ喜びのうちに献堂式が行われました。連合は、W・マグニソン博士夫妻をはじめ多くのゲストを内外から迎え、創立20周年を祝いました。教勢は、信徒数1,317名、献金203,905,884円でした。
1986年、フィリピンのセブ島においてアジア・バプテスト宣教会議が開かれ、連合の教職約40名が出席しました。泉田師はインドとエチオピアを訪問し、これからの協力について協議をしました。4月には百合ケ丘教会の献堂式が感激のうちに行われました。6月には、日本福音同盟の再編成と総会が開かれ、泉田師が最初の理事長に選ばれました。第1回連合婦人大会が湯島会館において開かれ、祝福されました。教勢は、信徒数1,389名、献金は259,089,235円と立派な成長を続けています。
1987年、開拓中の坂戸、下総教会がそれぞれ自立し、百合ヶ丘、新所沢、名東南も共に自立に向かって成長しています。緑教会は鳴海チャペルのための土地・建物を購入し、下総教会のために土地を購入することができました。第2回婦人大会が大阪なにわ会館で祝福のうちに行われました。日本福音同盟は、世界福音同盟(WEF)とアジア福音同盟(EFA)に正式に加盟しました。教勢は、信徒数1,469名、献金は230,038,136円でした。
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(7)連合の成熟
連合は次第に成熟して豊かな実を結び、さらにその働きを展開します。1987年には、川田師が新所沢、木田師が新宮、武田師が新家の教会の牧師に就任し、D・ヤンキ宣教師夫妻が来日されました。
1988年には、佐々木師によって取手開拓が始められ、百合ヶ丘教会は自立し、木森師が勝浦、西畑師が南部の教会の牧師・伝道師に就任され、下総教会は市川北パブテスト教会と改名し献堂式を行いました。東京キリスト教学園は千葉ニュータウンのキャンパスに移りました。教勢は信徒数1,535名、献金は272,227,049円でした。
1989年、連合には多くの教職が加わり、成長の勢いは増します。玉川における開拓伝道が福井師によって、西大寺における開拓はR・ソーリ師によって始められ、緑教会が献堂式をし、名東南教会が自立し、飯島師が拝島、山下師が生駒、山本師が枚方教会の牧師に就任されました。また、馬上・田原宣教師がフィリピンヘ宣教師として派遣されました。「2000年に100教会」のヴィジョンが与えられたのもこの年です。教勢は信徒数1,635名、献金は271,892,958円でした。
1990年、東京地区の御園ではヤンキ師によって、飯能美杉では黒沢師によってそれぞれ開拓伝道が始まり、また小野崎師が石神井教会の牧師に就任されて、女性教職が生まれ始めます。この年に連合の機構が実行委員会制から理事会制に変わりました。泉田師はバイオラ大学から名誉博士号を授与され、横山師はソ連の教会を訪問されました。教勢は、信徒数1,675名、献金323,924,158円てした。
1991年、第3回日本伝道会議が塩原において、韓・中・日数会指導者会議が韓国において開催され、連合は指導的な役割を演じます。新所沢、生駒教会が自立し、鳴滝、真砂教会がそれぞれ献堂式を行いました。第2回フィリピン福音チームを派遣し、中澤師はBGCの諸教会を訪問しました。教勢1,728名、献金は310,439,246円でした。
1992年、連合は「2000年に100教会」のヴィジョンを実現するために、積極的に開拓伝道に励みます。浜松において川口師が、北海道江別において空地師が開拓を始め、御園教会は自立してD・ポンド師を牧師に迎えます。この年の総会から伝道部が国内宣教部と世界宣教部になり、それぞれの担当理事に中西師と三ッ橋師が就任されました。白井師がバイオラ大学から名誉博士号を授与されました。教勢は、信徒数1,788名、献金は323,189,901円でした。
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(8)連合の新生
連合は、成熟して実を結びながら、21世紀に向かって新しいリーダーシップのもとに生まれ変わろうとしています。
1993年、E・ミルハウス宣教師によって浜松めぐみ教会が始められ、国分寺、拝島教会がともに献堂し、桜井師が新家、真田師が木本教会の牧師に就任されました。女性教職制が確立し、小野崎師、黒沢師、空地師、白井師が正式に連合教職に承認されました。教勢は、信徒数1,877名、献金361,180,525円でした。
1994年、宣教師による積極的な開拓伝道が目立つようになり、J・メイン師は新座において、G・ゼンキ師は守谷において開拓伝道を始めます。イスリブ師は南浦和教会の牧会に就かれ、御園教会は在日フィリピン人伝道を始めます。東海地区連合が発足し、第2回海外教職セミナーが米国サンディエゴにおいてもたれました。ビリー・グラハム東京国際大会が東京ドームで開催され、泉田師は大会会長として奉仕し、師はまた社会福祉法人キングス・ガーデン東京の設立にともなって理事長に就任されました。教勢は、信徒数1,888名、献金372,166,487円でした。
1995年、連合は開拓伝道とともに世界宣教に力を注ぎ、K・ミルハウス師によってボストン日本語教会が生まれます。秩父キリスト教会(楮本師)が加入し、米内師が国分寺教会の、丸山師が緑教会の、竹井師が金剛教会の牧師・伝道師に就任されました。連合理事長に中澤啓介師が選ばれ、21世紀に向けて新しい体制が整いました。また、第1回連合青少年大会(YPC)が開かれました。教勢は、信徒数1,971名、献金373,838,039円でした。
1996年、教職福祉制度をはじめ諸制度が整備され、青年や女性の集会の充実に力が注がれます。 D・ヤンキ師によって大野教会からクロスロード教会、御園教会のフィリピン伝道からサーバンツ・オブ・クライスト教会(ラカバ師〉が生まれました。ポンド師は国際キリスト教会の開拓を始め、藤薮師が白浜教会の伝道師に就任されました。教勢は、信徒数2,000名、献金は385,439,671円でした。
1997年、開拓中の諸教会も成長し、多くの教会が土地を購入し、会堂を建てます。坂戸教会は新しい地に移り、江別教会と白浜教会は会堂を建て、新家教会は土地を構入しました。鷲巣師が清瀬教会の伝道師に就任され、荒木恵宣教師が派遣式を経て田原宣教師とともにフィリピンに出発しました。第3回海外教職セミナーとして「第2回アジア・バプテスト宣教会議」がフィリピンのセブでもたれました。また、研究を重ねてきた信徒教育マニュアルのマスタープラン「TREEシステム」が承認され、パイロット版の試用が始まりました。教勢は、信徒数2,056名、献金437,041,074円でした。
1998年、竹井師が金剛教会から派遣されて和泉中央教会の開拓伝道に、鷲巣師が三郷教会の開拓伝道にそれぞれ着手されました。また、無牧であった百合ヶ丘教会に知識師が、御園教会に緑教会から丸山師が就任されました。中澤(信)師は大野教会牧師に就任し、クロスロード教会に派遣されました。新家教会と浜松教会が土地購入に続いて、念願の会堂を建築しました。この年は宣教団の日本宣教50周年にあたり、総会での感謝会と引退宣教師を訪ねるツアーが計画されました。
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バプテストの歴史
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(1)バプテストの誕生
(2)BGCの誕生
私たち日本バプテスト教会連合の信仰と遺産は、どのような歴史の中でつくられてきたのでしょうか。その源流を簡単に振り返ってみましょう。
(1)パブテストの誕生
バプテスト教会は、英国における宗教改革の運動の中から生まれました。英国における宗教改革は政治的理由によって始まったために、教会内において改革運動が起こり、それがいわゆるピューリタンの運動として大きく発展します。そのピューリタンは三つのグループに分けて考えることができますが、第一は国教会ピューリタン、第二は長老派ピューリタン、第三は会衆派ピューリタンです。この会衆派ピューリタンは、礼典だけの改革に満足せず、会衆政治によって教会を改革しようとしました。
この会衆派がヘンリー・ジャコブの指導の下に独立教会となりました。これらピューリタンはあくまで同教会内部にとどまって改革しようとしましたが、国教会から離れて教会をつくろうとする運動も起こってきました。それがいわゆる分離派と呼ばれるもので、1570年リチャード・フィツによって結成され、ロバート・ブラウンによって大きく発展させられました。彼は迫害のためにオランダに逃れますが、そこで論文を書き三つの原則を明らかにしました。それらは、(1)信徒は自由意志に基づく契約によって教会の会員となる。(2)数会役員は会員によって選ばれる。(3)どの集会も、他の集会の上に権威を振るってはならない、でした。
このブラウンの思想は、パウロたちによってつくられたロンドンの会衆派の集会に受け継がれました。他の分離派の集会が1606年ゲインズボローとスクルービーに生まれ、スクルービーの集会はロビンソンに指導されていました。しかし、迫害のために、1609年オランダに逃れ、やがてメイ・フラワー号でアメリカ新大陸に渡った者もいます。ゲインズボローのグループも迫害のために、ジョン・スミスの指導の下にアムステルダムに移っています。
このジョン・スミスは、神学教育と霊的訓練を、英国の改革派的カルヴアン主義の伝統の下で受けています。彼は、教会員となるのは自覚的に回心した者に限るべきことを確信し、いわゆる契約神学を退け、そのためにゲインズボローのグループとは別の集会をつくりました。そこでまずスミス自身が自分で潅(かん)水によるバプテスマを受け、次にヘルウィスにそして他の会員に授けました。ヘルウィスたちは1612年ごろ英国に帰り、最初のパブテスト教会を組織しました。教義的にはアルミニウス派の考えに従いました。彼らは無制限贖(しょく)罪説を採っていたので、一般パブテストと呼ばれるようになりました。
この一般パブテストに対し、特別パブテストと呼ばれるグループが生まれました。それは1633年ヘンリー・ジャコブの集会の分裂によって生まれたもので、彼らは信じて救われた者に対する浸礼によるバプテスマ、限定購罪を強調するカルヴァン主義の立場に立っていました。1638年、ジョン・スピルスバウリイの指導の下に正式に教会として発足しました。1644年には七つの教会となり、その年五十箇条の信仰告白を作成し、パブテスト教会の礎を置きました。
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(2)BGCの誕生
アメリカにおけるバプテストは、主としてこの特別バプテストの流れをくんでいます。ロージャー・ウイリアムズは始め英国国教会の聖職者となる教育を受けていましたが、間もなくバプテストの信仰を持つようになりました。1631年、彼は迫害を避けてアメリカ新大陸に渡り、ニュー・イングランドからさらにプリマスに赴き、サレムの教会の牧師となります。そこでも迫害に会い、ロードアイランドに逃れ、1639年アメリカ最初のパブテスト教会を設立しました。やがてアメリカ全土に広がり、政教分離、信仰の自由、個人の尊重といった信仰も広く受け入れられるようになりました。1740年には三千人程度でしたが、今日では二千万人を超えるアメリカ随一の教派となっています。
1835年、ニールソンという一人のスエーデン人の船員が、赦しい台風に苦しめられながらニューヨークに着きました。死と神の裁きについて深く考えさせられた彼は、上陸するとただちに教会を訪ね、そこで福音を聞き回心しました。回心後、彼は熱心に伝道を始め、特にスエーデンからの移民に伝道しました。バージル・オルソン師によれば、彼は当時メソジストだったようですが、多方面からの影響を受け幼児洗礼に疑問を抱くようになりました。彼はドイツのハンブルグで1847年、「欧州大陸におけるバプテストの父」と呼ばれるG・オンケンからバプテスマを受け、パブテストになりました。その後スエーデンに帰ってホーランドでスエーデン最初のバプテスト教会を設立し、その教会の牧師となりました。
1830年、イギリス人でメソジストの説教者であったジョージ・スコットがスエーデンの首都ストックホルムにやってくるや、彼の活躍でイギリス敬虔主義がスエーデンに急速に広まりました。しかしその一因に、十八世紀にドイツの敬虔主義の影響を受けた「残りの者」たちの地下水脈との合流があったことを忘れてはなりません。ニールソンは、このスコットから直接に敬虔主義の影響を受けたのです。若きアンダース・ヴィバーグも1825年にニールソンからバプテスマを受けてスエーデンのバプテスト教会創立に協力しましたが、彼もスコットの後継者ロザニアスと親しい友人関係にあって、敬虔主義の影響を受けていたと思われます。
1840年から50年にかけて、スエーデン北部で敬虔主義が強力に展開されると、同時に猛烈な迫害が起こり、1851年多くのクリスチャンがスエーデンを後にしました。そのなかで指導的な役割を果たしたのが、教師また歌手でもあったグスタフ・パームクィストです。彼は初めパブテストではありませんでしたが、ニールソンなどを通してパブテストの信仰についての知識をある程度持っていたようです。彼は1852年春イリノイ州のガレスブルクに行き、ひとつのパブテスト教会を見つけました。そこで、深くパブテストの信仰について理解するようになった彼は、1852年6月にバプテスマを受けてパブテストになりました。それから、同州のロックアイランドで腰を落ち着けての伝道に励むなかで数人が回心して信仰を告白し、その中の三人が1852年8月13日にミシシッピー川でパブテスマを受け、教会を組織するに至りました。これがアメリカでの最初のスエーデン系パブテスト教会です。
同じ頃、ニールソンも迫害を避けてデンマークに渡り、1853年再びアメリカに移りました。彼らのある者たちはロックアイランドにとどまりましたが、他の者たちはミネソタまで進み、そこにパブテスト教会をつくりました。このようにして、スエーデン系の移民を中心にあちこちに教会がつくられ、グスタフ・バームクイスト、アンダース・ヴィバーグ、アレクンス・エドグレン等の優れた指導者の下に順調に成長してゆきました。そして1879年スィディッシユ・パブテスト・ゼネラル・カンファレンスが組織されるに至りました。それが1954五年にパブテスト・ゼネラル・カンファランス(BGC)と改名されて今日に至り、セントポールにベテル大学とベテル神学校を擁しています。
このようにBGCは、信仰的には敬虔主義的なバプテスト信仰の特質を主流とし、神学的には穏健なカルヴァン主義に立つ者が多いのですが、アルミニウスの信仰の流れをくむ者も少なくありません。現在は十数万の信徒を擁しつつ、最近はスエーデン系の人々だけではなく、ドイツ系、スペイン系、中南米系の人々の間にも広がっています。また排他的ではなく、聖書信仰に立ちながら他との協力を大切にしています。
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連合の信仰告白:終末
[ 連合の信仰告白
| バプテストの歴史
| 連合の歴史
| 連合の理念・使命 ]
[ 序
| 聖書
| 三位一体の神
| 人間
| 教会
| キリスト者の生活
| 聖礼典
| 負うべき責任
| 終 末 ]
1.キリストの再臨
2.キリストの支配
3.キリストの審判
私たちは、イエス・キリストが見えるみ姿でこの世界に再臨されることを信じます。また、イエス・キリストが見えるみ姿で地上を御支配なさる時、人間の体のよみがえり、最後の審判、義人の永遠の祝福、罪人の永遠の苦痛が実現することを信じます。
終末論が流行している。終末は、一般の人々には不安であっても、キリスト者には希望である。聖書は、終末に関して多くの預言をしている。私たちは、その聖書の教えに従って、重要な幾つかの項目にまとめて告白しているのである。
それらは、キリストの再臨と支配、死人のよみがえり、最後の審判である。ここで重要なことは、〈見えるみ姿で〉とか〈体のよみがえり〉等の表現に見られるように、象徴や比喩としてではなく事実として行われることを明確に告白していることである。
終末の理解においてむつかしい問題は、一方ではエホバの証人等のようにユダヤ的字義主義に陥ることであり、他方では自由主義信仰者たちのように象徴的に解釈してしまうことである。また、特定の預言を極端に強調して解釈したり、熱狂主義の徒となってしまう危険がある。私たちは、健全な信仰に立ちつつ、聖書の正しい解釈により、終末に関する正しい信仰に生きる者とならなければならない。
1.キリストの再臨
主イエス・キリストは、ご自身の再臨について多く言及しておられる(マタイ16:27、24:30、44、25:31、ヨハネ14:28)。パウロも、キリストの再臨について多くのことを教えている(第一コリント11:26、15:23、第一テサロニケ4:13−18)。キリストの再臨は、聖書の基本的な教えの一つであり、キリスト者の希望である。
私たちは、〈イエス・キリストが見えるみ姿でこの世界に再臨されることを信じ〉る。主イエスは、昇天されるとき、約束して言われた。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたを見たときと同じ有様で、またおいでになります」(使徒1:11)。使徒パウロも、主イエス・キリストが栄光のうちに天使たちを従えて来られると語っている(第二テサロニケ1:7、テトス2:13)。黙示録は全篇(ペん)これキリストの再臨と新天新地についての預言であり、すべてが詳しく生き生きと語られている。そしてその終わりは、「これらのことをあかしする方がこう言われる。『しかり、わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください」(黙示録22:20)という言葉で、力強くまとめられている。
主イエス・キリストの再臨は、私たちの希望である。「主イエスよ、来てください!!」
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2.キリストの支配
キリストは、この世を支配される。キリストの支配は、現在であり終末である。主イエスは、多くの悪霊を追い出された時、次のように言われた。「わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」(マタイ12:28)。イエス・キリストによる支配は、イエス・キリストが初めてこの世界に来られた時からすでに始まっている。しかしその支配は多くの人々には隠されており、直接的ではない。〈イエス・キリストが見えるみ姿で地上を御支配なさる〉のは、再臨の時からである。その時、すべてのものは裁かれ、最後の敵である罪と死も滅ぼされ、キリストの御支配は完成する。
キリストの支配は、地上の世界だけではなく、あらゆる霊の領域にも及ぶ。サタンは、終末の時代になるとますますその猛威を奮うのであるが、やがて「火と硫黄との池に投げ込まれ」(黙示録20:10)、キリストの御支配は完成するのである。
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3.キリストの審判
キリストの再臨の時の状況を、パウロは次のように描いている。「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響のうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです」(第一テサロニケ4:16、17)。キリストの再臨の時は、キリストにあって死んだ者のよみがえりの時であり、救いの完成の時である。しかし〈人間の体のよみがえり〉と言うとき、その意味はさらに広く、すべての人の体によるよみがえりのことである。
すべての者は、体によるよみがえりの後、神による最後の審判を受ける。〈最後の審判、義人の永遠の祝福、罪人の永遠の苦痛が実現することを信じます〉。ここで〈義人〉と〈罪人〉の言葉が対比されながら使われているが、それには信者と未信者という意味と共に、それぞれが人間としてどのように生きたか、ということも含まれている。義人には神と共にある永遠の祝福が、罪人には永遠の苦痛が与えられるのである。〈滅亡〉という言葉は絶滅するという意味ではなく、生ける神との祝福された交わりから追放され、苦痛とのろいの中に置かれることである。
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連合の信仰告白:負うべき責任
[ 連合の信仰告白
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[ 序
| 聖書
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| 人間
| 教会
| キリスト者の生活
| 聖礼典
| 負うべき責任
| 終 末 ]
1.神に責任を負う者
2.私たちは平等である
3.私たちは自由である
私たちは、教会及びキリスト者が、信仰にかかわるあらゆる事柄において、ただ神にのみ責任を負う者であることを信じます。このゆえに、私たちは互いに平等であり、政治的、宗教的などのような権力からも、独立と自治を犯されない自由を持っています。
この告白は、バプテストの信仰の優れた特色を示しており、信仰の独立と自由と平等をダイナミックに表現している。キリスト者の独立と自由と平等とは、人間の思想や主張から生まれたものではなく、神に対する信仰と交わりの結果与えられたものである。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください」(使徒4:20)と宣言したペテロの言葉が雄弁に物語っているように、生ける真実の神の前で正しいかどうかがすべての判断の究極的な基準である。また、私たちは、日常生活のすべての人間関係における出来事において、何よりもまず神に責任を負う。そのゆえに、私たちは人間的な思いと奴隷的な関係から解放され、独立した自由な存在として生きる。
この生き方は、人ではなく神に責任を負うものであるゆえに自由であり、神によって人に仕える者であるゆえに誠実である。自己主張から生まれた独善に陥ることなく、それぞれは神によって生かされている者であるという自覚のゆえに人格的に尊重し合う(マタイ5:45、19:13、14、ローマ14:1−23)。私たちは、この基本的な精神に立って、互いに独立と自由と平等の関係を結び合っていく。
1.神に責任を負う者
使徒たちが語っているように、キリスト者はまず神との関係に生きる者であり、何よりも神に責任を負う者である。キリスト教は、その誕生の時から政治的、宗教的勢力による厳しい圧迫を受け、長い歴史の中で多くの迫害を経験してきた。また、キリスト教が世界的宗教となるにつれ、教会内においても信仰の独立と自由とが侵害されることも少なくなかった。宗教改革者たちは、ローマ・カトリックからの独立と自由を求めて、苦しい戦いを続けなければならなかった。バプテストの先輩たちは、完全な信仰の独立と自由を求めて立ち上がり、厳しい戦いを繰り広げた。どのような政治的、宗教的な権力にも属しないで、神とキリストに対する誠実な信仰に生きようとした。その厳しい戦いによって、今日の世界における信教の自由が確立するようになった。しかし、それは基本的には、神に誠実に生きる信仰の結実である。その意味において、〈私たちは、教会及びキリスト者が、信仰にかかわるあらゆる事柄において、ただ神にのみ責任を負う者であることを信じます〉と告白するのである。私たちは、この告白の精神を、国家との関係において、教会政治において、日常の人間関係において、生かしてゆくのである。
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2.私たちは平等である
神はすべての人間を等しく神のかたちにつくられ、すべての人は神にとってかけがえのない者である。人間の社会においては、多くの差別がある。人種的に、社会的におびただしい差別があり、また男女の差別がある。秩序は必要であるが、差別は排除しなければならない。キリスト教は、その長い歴史の中で人間的な差別を排除するために戦い、多くの成果を得てきた。今日もその努力を怠ってはならない。
一般の社会だけではなく、教会の中においても真実の平等が確立するように、努力を続けなければならない。すべてのキリスト者は大祭司であるキリストを通して等しく神と交わることができる。従って聖職者と俗人という区別は本質的にはあり得ない。このゆえに、教会員は平等の権利義務を持ち、教会政治は会衆制であり、それぞれの教会は独立政治であるのである。とはいえそれは無秩序であったり、孤立することではない。教会は本質的にキリストにある霊的共同体であり、個人主義とは異なる。また、それぞれの教会は福音宣教の健全な成長のために協力するのであり、そのために私たちは教会の連合を結成し、互いに協力し合うのである。
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3.私たちは自由である
繰り返し言及したように、教会とキリスト者は政治的権力や宗教的勢力によって、信仰の独立と自由を犯され、教会の自治が脅かされてきた。そのゆえに、私たちは、〈政治的、宗教的などのような権力からも、独立と自治を犯されない自由を持っています〉と声を強めて告白し宣言するのである。
キリスト者にとって、信仰の自由は最も大切なものである。自由のない信仰は、死である。その信仰の自由が、あらゆる領域において守られるように努力しなければならない。現実の世界における多くの政治的権力は、信仰の自由を抑圧したり、教会を政治的目的のために利用しようとする。今日の日本においても、靖国神社法案に見られるように、実質的に信仰の自由を奪う危険が少なくない。目を覚まして、そのような動きを鋭く見守ってゆかなければならない。
信仰の自由を脅かしているのは、ただ政治的権力だけではなく、宗教的勢力でもある。特に、カトリックやイスラムの世界においては、他宗教や信仰に生きる者たちの自由を認めない傾向が強い。日本でも仏教的習慣や神道的行事のゆえに、キリスト者の信仰の自由はしばしば脅かされている。私たちは、神に誠実に生きる者となるために、これらの政治的権力や宗教的勢力から、信仰の自由をしっかりと守らなければならない。
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連合の信仰告白:聖礼典
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1.二つの礼典
2.バプテスマ式
3.聖餐式
私たちは、教会の主なるイエス・キリストが、パブテスマと聖餐との聖礼典を、キリストの再臨の日に至るまで行うよう地区教会にゆだねられていることを信じます。また、パブテスマは、イエス・キリストを救い主として信じ告白した人の全身を水に浸し、聖餐式は、イエス・キリストによって定められたように、記念として行われます。
ほとんどすべてのプロテスタントの教会においては、パブテスマと聖餐を真の教会において行われる聖礼典として受け入れている。私たち連合の諸教会も、その二つの礼典を行っている。礼典は、聖なる教会の印の一つとして初めから重要視され、その意味と方法については多くの論議が繰り返されてさた。私たち連合は、穏健なパブテストの信仰と伝統に従い、前述のような告白をしてきた。
1.二つの礼典
私たちは、バプテスマと聖餐の二つの礼典は、主から教会にゆだねられたものであることを信じている。まずバプテスマであるが、まず主イエスご自身が進んで受けられ、さらに「このようにして、すべて正しいことを実行するのはわたしたちにふさわしいのです」(マタイ3:15)と言われた。イエスの弟子たちもバプテスマを施し(ヨハネ3:22、4:2)、初代教会も多くの人々にバプテスマを授けた(使徒2:38-41)。次に聖餐式であるが、それは弟子たちと共に守られた最後の過越の食事から始まり(マタイ26:17−29)、初代教会において誠実に行われてきた(第一コリント11:17−30)。
ローマ・カトリックは、これら二つに加えて悔俊(しゅん)、堅信、品級、婚姻、終油の七つを秘蹟(ひせき・サクラメント)としている。メノナイトのあるグループのように、洗足を加えて三つの礼典を行っている人々もいる。礼典の解釈にもよるが、すでに述べたようにほとんどのプロテスタント教会は礼典をやや厳密に解釈して、二つの礼典に限定して行ってきた。
私たちは、バプテスマはあかしとして、聖餐は記念として行う。もちろん、パブテスマは霊的な死と再生という出来事の象徴的な意味があり(ローマ6:1−11)、告白としての意味もあるが、基本的にはあかしとしての意味があるということができよう。聖餐にもあかしとしての意味もあるが、基本的には記念として行われるのである(第一コリント11:25、26)。
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2.パブテスマ式
バプテスマは、キリストにあり聖霊によって罪に対して死に神に対して新しく生まれた霊的な出来事を告白し、あかしするために行う。
バプテストは、その聖書的意味に鋭く目覚め、自覚的に行おうとした者たちである。そのゆえに、まず国民とキリスト者を同一視する国教会制度に強く反対し、教会はキリストにあって新生した者たちによってのみ形成されなければならないと主張したのであった。また、幼児洗礼に反対し、自ら自覚的な意志によってキリストを信じた者のみがバプテスマを受けるべきであると強調したのであった。
バプテスマの形式は、新約聖書の方法に従って浸礼であると確信している。これらのゆえに私たちは、〈また、バプテスマは、イエス・キリストを救い主として信じ告白した人の全身を浸し〉と具体的に告白したのである。
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3.聖餐式
聖餐は、すでに述べてように最後の過越の食事に由来し、十字架を覚えるために行われたのであった。従って、パンとぶどう酒はあくまでパンとぶどう酒であって、イエスの体や血となったり共に存在しているわけではない。しかし、聖餐式において、私たちは主イエス・キリストと聖霊によって一つとされ、他のキリスト者と一つに結び合わされていることを確信することができるのである。
聖餐式は牧師によって行われ、信徒役員がそれを補助する形で行われる。聖餐にあずかる者については、教派的地域教会を重視する者はその教会の会員に限定する閉鎖的聖餐式を行い、普遍的教会を強調する者はキリストにあるすべての者が参加する開かれた聖餐式を行っている。
連合は、それらと方法については特に具体的に規定せず、〈イエス・キリストによって定められたように〉と言及しているだけである。それには、聖餐が主によって制定されたという意味と、その理解と方法は原則として地区教会の独自性にゆだねるという意味が、それぞれ含められている。
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連合の信仰告白:キリスト者の生活
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1.キリストを模範とする
2.キリストに従う
3.キリストに似る
私たちは、生まれ変わったすべての人々が、キリストの体である教会の一員であるゆえに、イエス・キリストを模範とし、信仰のあかしとしてパブテスマを受け、地区教会に属し、礼拝と交わりを通して、神のみ心を実現してゆく責務を負っていることを信じます。このゆえに、キリスト者は、イエス・キリストに従うことによって、神の栄えと、人々のために生活し、神からゆだねられている一切の財産、時間、才能等を忠実に管理し、信仰によってその人格をキリストの徳の高さにまで到達させられる光栄にあずかっています。
教会に続いて、キリスト者の生活について告白する。このキリスト者の生活は大きく二つの部分に分けることができる。第一は教会生活であり、礼拝と交わりを通して神のみ心を実現する義務を負っていることを強調している。第二は社会生活であり、神からゆだねられている才能や財産を活用して神と人とに仕えて生きることを強調している。
これら二つのことは、キリスト者の生活においても最も基本的なことであり、それらがしっかりと確立しなければすべての生活は砂上の楼閣で終わってしまうであろう。私たちの「キリスト者の生活」に関する信仰告白は、必ずしも歴史的・社会的に十分に展開しているとは言えないが、この基本的な事柄が確立しているならば、すべての生活は祝福されたものとなるであろう。
1.キリストを模範とする
私たちは、キリストの体である教会の一員であり、何よりも〈イエス・キリストを模範とし〉て生きるのである。イエス・キリストを模範とするということは、道徳的にキリストのように生活するという意味ではない。むしろ、キリストとの交わりによってつくり変えられ、キリストのみ心に生きるということである。そのためには、罪を悔い改めてキリストを信じて受け入れ、さらに次のことが必要である。まず〈信仰のあかしとしてパブテスマを受け〉ることである。キリストは、神のみ心に従ってパブテスマを受けられた(マタイ3:15−17)。私たちも、キリストを信じ、バプテスマを受けるのである。日本では人間的な思いや配慮のゆえに、キリストを信じてもバプテスマを受けようとしない者が少なくないが、キリストの模範に徒ってバプテスマを受けるべきである。次に、それぞれの〈地区教会に属し〉、教会員としての責任のある生活を過ごすべきである。さらに、〈礼拝と交わり〉を大切にしなければならない。礼拝は神との交わりであり、交わりは他のキリスト者とのキリストにある交わりである。礼拝と交わりはキリスト者の霊的成長のために欠くことのできないものであり、現実の生活で最優先しなければならない。
私たちは、これらの生活を通してキリストと共に生き、神のみ心を現実の生活において実現していくのである。
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2.キリストに従う
キリスト者の生活は、キリストに従う生活である。キリストに従うためには、二つのものに勝たなければならない。第一は、自我に勝つことである。人間は、自分の考え方や生活がいつの間にか中心となってしまう、きわめて自己中心的な存在である。それは、キリスト者となっても克服しにくい現実であり、自我との戦いは最も厳しい戦いである。その自我との戦いに勝って、真実に神中心に生きる者となるのである。第二は、この世に勝つことである。ペテロが「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください」(使徒4:19)と語ったように、私たちは人より神に従う者となるのである。そのためには、私たちはこの世に勝たなければならない。
私たちがキリストに従うのは、〈神の栄光〉をこの世において現すためである。私たちの生活の目的は、自分の利益や栄誉ではなく、神の栄光を現すことである。また、私たちがキリストに従うのは、人々に仕え、〈人々のために生活し〉ていくためである。逆説的であるが、人ではなくキリストに従うとき、真実に人々のために生きることができる。キリストに従うとき、神の栄光を現し、人に仕えて生きることができるのである。
キリストに従う者として、現実の生活において大切なことは、〈神からゆだねられている一切の財産、時間、才能等を忠実に管理〉することである。財産も時間も才能も神のものであり、私たちはそれらを忠実に管理し、神のために活用しなければならない。(マタイ25:14-30)。
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3.キリストに似る
キリスト者は、その日常生活においてキリストを現していく(第二コリント2:14−17)。そのためにもキリスト者は、〈信仰によってその人格をキリストの徳の高さにまで到達させられる光栄にあずかってい〉るのである。使徒パウロは、次のように述べている。「私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけまで達するためです」(エペソ4:13)。
キリストに似た者となることがキリスト者にとって最も本質的なことであるが、それは次の二つによる。第一は〈信仰によって〉行われることである。また、それは神が聖霊によって行われることであって、人間の力や努力でできることではない。人間は弱い存在であって、自らの力でその人格をキリストの徳の高さにまで到達させることはでさない。しかし、キリストが内住され、聖霊の力によるとき、自ら到達することができるのである。第二は教会において行われることである。キリストに似た者とされることは、個人の倫理としてではなく、教会の交わりの中で実現するのである(エペソ4:15、16)。この教会的意味を見落としてはならない。
生活は人である、と言うことができる。人によって生活は決まってくるからである。そのゆえに、私たちキリスト者は、どのように生活するかを考える前に、どのようにキリストに似た者となるかを考えなければならない。私たちがキリストに似た者となるとき、私たちの生活もキリストにふさわしいものとなり神の栄光を現すことができる。
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連合の信仰告白:教会
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1.教会の普遍性と地域性
2.キリストの体としての教会
3.教会の使命と協力
私たちは、キリストをかしらとした見えない唯一の教会が存在していることを信じます。この教会は、キリストの体であって、時間的(歴史的)にも、空間的(地域的)にも、生まれ変わったすべての人々によって構成されています。また、キリストの体であるこの教会は、見える形において各地区に存在して、神を拝し、互いに協力し合い、キリストの命令に従って、愛をもって失われた世界に福音を伝え、バブテスマと聖餐(さん)との礼典を守り、平等な働きをするものであると信じます。
私たちは、教会について豊かな内容のある信仰告白をしている。見えない普遍的教会と見える地域の教会、教会のかしらであるキリストとキリストの体である教会、福音の宣教の使命とそのための健全な協力、聖礼典、教会の平等性の強調等である。それらすべてがあるものは縦糸、あるものは横糸となってあたかも色彩豊かな織物のように織りなされている。このように豊かで有機的な教会観は、聖徒の健全な成長と神の救済の完成のために最も本質的なものである。
キリスト教は二千年に及ぶ歴史において、世界のほとんどすべての国に伝えられ、多くの民族の中で多様な教会と教派を生み出してきた。それだけに、教会の普遍性と特殊性とを、均衡良く理解しなければならない。見えない教会だけを強調するとき抽象的になり、見える教会のみを主張するとき教派主義のとりこになってしまう。
最近、〈キリストの体〉としての教会観が繰り返し強調され、聖徒の有機的交わりと賜物による積極的な奉仕が期待されている。それは、救われた聖徒の健全な成長のためでもあり、教会の発展のためでもある。私たちは同じ趣旨から、〈キリストの体〉としての教会に焦点を合わせ、教会に関する信仰告白をしているのである。
1.教会の普遍性と地域性
キリストの教会を、〈見えない教会〉と〈見える教会〉に分けて理解する考え方が伝統的にあり、私たちもその考え方に従っている。それらには、際立った対照がある。
第一は普遍的で、すべての時代のあらゆる民族における全聖徒を含む。それに対して〈見える教会〉は、地域的であって、それぞれの地域において固有名詞をもって現実に存在している。現実には、地域性と共に教派性が加わってくる。今日の世界においては、同じ地域においても異なった多くの教派の教会が存在している。
そこで求められることは、普遍性と地域性の健全な調和である。私たちが、〈キリストをかしらとした見えない唯一の教会が存在していることを信じます〉と告白するとき、現実の地域教会の在り方に確信を持つと同時に、それは普遍教会の一部であることを認め、教派的遺産と立場を確信しつつも独善に陥らないように自戒するのである。
第二は、純粋性と現実性である。〈見えない教会〉は真実に生まれ変わった聖徒たちのみによって形成されているが、〈見える教会〉は教会員とされた者たちによって構成されている。厳密に言うならば、見える教会の教会員と見えない教会の会員とは一致するはずであるが、現実には見える教会の教会員と認定するのは神ではなく人間であり、真実に新生していない者が加えられる可能性がある。現実の教会においてはその可能性を全く否定することは不可能であり、毒麦の例えのように(マタイ13:24-30、36-43)、究極的には神の裁きにゆだねなければならないであろう。
ただ現実の教会に求められていることは、自らの限界をわきまえつつも教会を真実なものとし、謙そんになって他の教会と協力し合ってゆくことである。
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2.キリストの体としての教会
使徒パウロは、多くの美しい表現をもって教会を表現している。エクレシヤ、神の国、神の家族。しかし、最も多く用いている言葉は〈キリストの体〉である(ローマ12:3−8、第一コリント12:12−31、エペソ4:11−16)。このキリストの体としての教会には、重要な二つの真理がある。
第一に、教会のかしらはキリストである。英語のチャーチという言葉はギリシャ語のキュリアコス(主に属する者)から生まれたもので、教会の主はキリストであることをよく表している。使徒パウロは、「愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長しかしらなるキリストに達することができるためなのです」(エペソ4:15)と語り、キリストとの生命的・有機的な結合と共にキリストの支配と標準を強調している。キリストが教会のかしらであり、教会においてはまずキリストに直結していなければ、生命も力も期待することはできない。
第二にキリスト者はキリストの体である。そこには三重の真理がある。まず一体性の真理で、民族・社会的階級・男女の相違を超えて一体とされ(第一コリント12:12−13)、異なつた人間がそのままキリストにあって一つ体とされている。次は多様性の真理である。一体であることと同一であることとは違う。むしろ、一人の身体には異なった多くの部分があり、それぞれ異なった働きをしているように、同じ教会に属する者たちがそれぞれの個性と賜物を尊重しながら自由に活躍すべきである(第一コリント12:12−25)。最後は共に成長する真理で、体全体のそれぞれの部分がその力量にふさわしく働き共に仕え共に成長するように(エペソ4:15−16)、キリスト者も共に仕え共に成長するのである。
このような在り方は、それぞれの教会だけではなく、教会相互の協力関係においても重要である。
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3.教会の使命と協力
神がこの地上にキリストの教会を創立されたのは、〈神を拝し互いに協力し合い、キリストの命令に従って、愛をもって失われた世界に福音を伝え)るためである。私たちは、神が教会に与えられた中心的な使命は福音を保持し宣教することである、と確信している。私たちは、礼拝において神のみ言葉を聞き神を礼拝し、ささげる。弟子たちに全世界に行って福音を宣べ伝えるように命じられたように(マタイ28:19−20)、福音の宣教こそ教会に与えられた究極的な使命である。日本バプテスト教会連合は、その福音の宣教と教会の完成のために結成された。「この日本パブテスト教会連合は、教会完成のために教会連合を組織することが最良の方法であると信じる各地区教会が、パブテストの信仰に基づいて協力し、福音を宣べ伝え、参加教会の発展を図って神の栄光を表すことを目的とする」。
連合はこの目的のために結成されたのであり、参加教会の相互協力を最も大切なこととし、さらに他の諸団体との協力も重要視する。排他的であったり孤立することは真実の教会にはふさわしくない。ただ私たちは各教会の自治・自立を尊重するパブテストの信仰に立っており、それぞれの教会は平等であって、各教会の自治を犯すことは決してない。
私たちは、パブテスマと聖餐の二つの礼典を誠実に執行する。パブテスマは信じて救われた人にのみ施し、その形式は聖書に基づいて浸礼で行う。聖餐式は、主イエス・キリストの十字架の記念として行い、ローマ・カトリックの化体説や一部プロテスタントの主張する共在説は採らない。
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連合の信仰告白:人間
[ 連合の信仰告白
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[ 序
| 聖書
| 三位一体の神
| 人間
| 教会
| キリスト者の生活
| 聖礼典
| 負うべき責任
| 終 末 ]
1.人間の罪
2.人間の救い
3.人間の運命
私たち人間は、生まれながら罪人であり、本質的にも、自己意志の選択によっても、罪の生涯をたどる者であることを信じます。このゆえに、どのような人でも、神のみ前に自分の罪を認めて悔い改め、イエス・キリストを救い主として信じることによって神の子とされ、神のみ前に永遠に喜ぶ生活へ入れられます。また、イエス・キリストを信じない人は、その罪のゆえに神の怒りを受けて、永遠の滅亡に定められます。
人間の本質と運命は何か。それは永遠の課題であって、古来おびただしい説明が試みられてきた。私たちは、聖書に従い、特に二つのことを告白する。
第一は、人間の罪である。キリスト教の人間観は、罪を強調するあまり暗く否定的な教えであるように思われがちであるが、むしろ罪の現実を直視することによって明るい救いを提供している。第二は、人間の救いである。罪の悔い改めとキリストヘの信仰による救いが説かれ、神と共に生きる喜びが強調されている。この二つは、聖書において繰り返し説かれていることであり、多くの信仰告白において告白されてきている。
1.人間の罪
聖書は、人間は神の本質に似せてつくられた者であり(創世記1:26-27、エペソ4:24、コロサイ3:10)、その本質はすべて善であると述べている(創世記1:31、マルコ7:19)。その意味では、キリスト教は性善説であると言うことができる。人間の本性が善であるゆえに、神のみ心を知り、神によって救われることができる。
しかし、人間は神に対して罪を犯してしまった(創世記3:1−24、ローマ1:19-3:20)。罪の本質は、真実の神を神とせず、自らを神とし、被造物を神として礼拝することである。神に対するこの転倒した関係は、やがて人間の関係にも見られるようになり、倒錯した性関係と親に対する反抗は日常生活の至る所に見られる。
私たちすべては〈生まれながら罪人であり〉(ローマ6:16−17、7:17−21)、本質的にも自己意志の選択によっても、罪の生涯を過ごす者となったのである。〈本質的に〉とは、無意識のうちに罪を犯し、それを当然のこととして生きていることである。〈自己意志の選択によって〉とは、「神を知っていながら、その神を神としてあがめず」「自分では知者であると言いながら、愚かになり」「してはならないことをするように」なった(ローマ1:21-28)と言われているように自らの意志によって罪を犯したことである。つまり、意識的にかつ自らの責任において罪を犯しているのである。このように、無意識にまた意識的に罪を犯し、罪の生活を過ごしているのである。
このように神に対して罪を犯した人間は、人間の関係においても多くの罪を犯し、不法と不道徳の中に生きるようになっている(ローマ1:19−32)。
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2.人間の救い
人間の救いには、二つの重要な要件がある。第一は、罪の悔い改めである。〈このゆえに、どのような人でも、神のみ前に自分の罪を認め〉ることである。神と人とに対して、どのように恐ろしい罪を犯しているかを知らなければならない。最大の罪は、罪を認めないことである(第一ヨハネ1:10)。次に、罪を悔い改めることである。〈悔い改め〉は、単なる反省ではなく、その生き方を根本から変えることである。ペテロは「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち帰りなさい」(使徒3:19)と勧め、「この曲がった時代から救われなさい」(使徒2:40)と諭している。第二は、キリストに対する信仰である。私たちは、〈イエス・キリストを救い主と信じるこにとよって、神の子とされ〉るのである。救い主として信じるとは、神から遺わされた救世主、罪からの救い主として信じて受け入れることである。また、主として受け入れ従うことである。
人間の救いにおいて、新生は最も重要なことであり、〈御霊によって新しく生まれ変わ〉らなければならない。主イエス・キリストは、ニコデモに言われた。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハネ3:3)。
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3、人間の運命
人間には、二つの道がある。第一は、祝福への道である。罪を悔い改めてイエス・キリストを救い主として信じる者は、み霊によって新しく生まれ変わり、〈神のみ前に永遠に喜ぶ生活へ入れられます。〉それは、神との正しい関係の生活であり、神を喜び(ローマ5:11)、神に喜ばれる生活である。そこには祝福があり、その祝福は地上の生活においてすでに実現しているだけではなく、永遠の命として神の国において完成するものである。「見よ、神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる」(黙示録21:3)。第二は、滅亡への道である。〈イエス・キリストを信じない人は、その罪のゆえに神の怒りを受けて、永遠の滅亡に定められます。〉人間はいま神に反逆して罪を犯し、神の怒りの下にある(ローマ1:18、エペソ2:3)。さらに、あくまで悔い改めようとしないで罪を重ね、神の怒りを積み重ねている(ローマ2:5)。従って、イエス・キリストを信じないことが致命的な罪であり、神の怒りを受けて永遠の滅亡に定められるのである。〈永遠の滅亡〉は、単なる滅亡ではなく、永遠の苦痛である。
人間は、単なる肉体的存在ではなく、地上の生涯がすべてでもない。この世を去った後すべてについて神の裁きを受ける(ローマ2:5-10)。その時、イエス・キリストによって罪を赦され、神と和解しているかどうかが最も重要である。人間には、二つの道、二つの運命があるだけである。
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連合の信仰告白:三位一体の神
[ 連合の信仰告白
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[ 序
| 聖書
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| 負うべき責任
| 終 末 ]
1.父なる神
2.子なる神
3.聖霊なる神
私たちは唯一にして生ける真の神を信じます。この神は、永遠の聖なる実在者であって、父、み子、み霊の三位一体の人格を持ち、その神性においてまったく等しく、ただ霊とまことをもって拝されるべきお方です。
日本人の神観念は、ギリシャ人のそれと同じように、自然宗教的であり、多神教的である。パウロは、アテネで伝道した時、次のように指摘している。「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません」(使徒17:23、24)。彼は、神は創造主であり、観念や偶像ではないことを、はっきり宣言している。
私たちは、まず神は唯一にして生ける方であることを、告白する。神は唯一である(申命記6:4、マルコ12:29、ヨハネ17:3、第一コリント8:4−6)。生ける神である(ヨシュア3:10、エレミヤ10:10、第一テサロニケ1:9)。永遠の聖なる実在者である(創世記21:33、イザヤ4:28、第一ヨハネ5:20、イザヤ8:13、エゼキエル20:41、エペソ4:24、黙示録4:8)。
神は唯一であるが、父、み子、み霊の三位格(ペルソナ)を備えておられる(マタイ28:19、第二コリント13:13)。三位一体は偉大な秘義であって、人間の論理で完全に説明し尽くすことはできない。唯一の神は、父なる神、み子なるキリスト、聖霊なる存在として自らを現された。私たちは、神が唯一であられると共に、三位格であられることを信じる。
神は霊とまことをもって礼拝されるべき方である。主イエスは、サマリヤの女に「神は霊ですから、神を礼拝する者は霊とまことによって礼拝しなければなりません」(ヨハネ4:24)と語られた。私たちは、〈生ける真の神〉を信じ、〈霊とまことをもって〉礼拝する。
1.父なる神
私たちは、天地の創造主、聖においては完全であり、知恵においては無限であり、力においては計り知ることのできない、父なる神を信じます。また、深い哀れみをもって、人間の諸問題に関心を示し、私たちの祈りを聞き祈りにこたえ、イエス・キリストを通してみもとに来るすべての人を、罪と滅びから救うことを心から喜ぶ方であることを信じます。
神は単なる存在ではなく、人格的なお方である。主イエスは、「天にいます私たちの父よ」(マタイ6:9、ルカ11:2)と祈ることを弟子たちに教えられた。唯一の神は人間のすべてを知り、それにこたえることのできる父である。
さて、その父なる神は、天地の創造主であり(創世記1:1、イザヤ40:26−28、マルコ13:19、使徒17:24−29)、聖においては完全であり(イザヤ6:3)、知恵においては無限であり(ローマ11:33)、「力においては計り知ることのできない(エペソ1:19−20)方である。ここでは、神の完全で無限であることが、具体的かつ最大級に告白されている。
神は、人間のすべてに深い関心を持っておられる。〈深い哀れみをもって〉は、人間に対する深い関心と大さな愛を表す(ヨハネ3:16、ローマ9:22−24)。そのゆえに、私たち人間にとって救いの希望がある。神は私たちから遠く離れておられるのではなく、私たちと共におられ、私たちのすべての祈りにこたえて下さる方である(第二歴代誌6:30、ルカ18:1−8)。
神はすべての人間が救われることを願っておられるが、〈イエス・キリストを通してみもとに来るすべての人を、罪と滅びから救うことを心から喜ぶお方である〉。つまり、神のみ心はすべての人が救われることであるが、それは必ずしも無限定ではない。。人間の罪の現実をそのまま容認できないからである。人間は罪を悔い改め、イエス・キリストを信じ、神と和解しなければならない。〈イエス・キリストを通してみもとに来るすべての人〉という告白は、人間の救いにおいて最も基本的なことである(使徒4:10−12)。人間の救いに関するこの宣言は、他宗教の人々には独善のように思われるかも知れないが、むしろ客観的な神のみ心である。
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2.子なる神
私たちは、聖霊によって処女マリアより生まれ、その生涯罪なく、十字架の死と葬り、体のよみがえりによって罪のあがないを完成されたみ子なる神イエス・キリストを信じます。
キリスト教がユダヤ教を始めとする他の諸宗教と決定的に違うところは、イエス・キリストがみ子なる神であり救い主であると告白していることである。キリストは聖霊によって処女マリヤより生まれられた(ルカ1:26−38)。つまり、完全な神が完全な人として、この地上に出現されたのである。その生涯において罪を犯すようなことはなかった(ヨハネ19:4、ヘブル4:15)。キリストは、このように完全で罪のない方であられたので、人間の罪を完全にあがなうことができたのである。〈罪のあがない〉はキリストによる救いの核心であり、人間の罪のために代価を払って人間を罪から解放することである(ローマ3:24、ヘブル9:12)。
キリストは、そのあがないを二つの出来事を通して完成された。第一は、〈十字架の死と葬り〉である。キリストは政治犯として処刑されたのではなく、人間の罪の裁きを受けて十字架につけられたのである(第一コリント15:3、マタイ20:28)。第二は、〈体のよみがえり〉つまり復活である。キリストの復活は、罪と死とに対する二重の勝利である(第一コリント15:55−57)。それは神の全能の力による勝利であり、その復活の力によって私たちも罪と死とに対して勝利を得ることがでさるのである(エペソ1:19-21)。
キリストによるあがないは、真実な大祭司であられることにもよる。キリストは永遠の大祭司であるがゆえに、人間の罪を完全にあがなうことができたのである(ヘブル7:24−27)。
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3.聖霊なる神
私たちは、父とみ子から遣わされている、聖霊なる神を信じます。また罪と、義と、裁きについて、人々の目を開き、イエス・キリストを信じる者を新生させ、その人の心の内に住み、清め、教え、導き、助け、強めて下さるお方であることを信じます。
今日、聖霊とその働きの理解に混乱が見られるが、私たちは、聖書の教えによらなければならない。主イエス・キリストは弟子たちに約束して言われた。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかしもし行けば、わたしは助け主をあなたがたに遣わします」(ヨハネ16:7)。約束された通り、昇天された後、助け主である聖霊が弟子たちに与えられたのであった(使徒2:1−4)。
私たちは、聖霊について特にその働きに焦点を合わせて、告白している。聖霊の働きは三重である。
第一は、罪と義と裁きを認めさせる(ヨハネ16:8−11)。人間は、神に対する罪と神の義と神の裁きについては盲目であり、またそれらを認めようとしない。罪とは不信仰であり、義は神の正義と正しい関係であり、裁きは現在と終末における裁きである。聖霊が働かれるとき、初めてそれらを鋭く認めることができる。
第二は、新生である。キリストは、ニコデモに、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません」(ヨハネ3:5)と言われたが、だれでも聖霊によらなければ新生することはできない。〈新生〉とは、単に再生することではなく、神の国の民として新しく生まれ変わることである(第一コリント15:50)。
第三は、清めと導きである。神の国の民とされたキリスト者に対する聖霊の働きは、豊かで多様である。聖霊は、キリストを信じる者を新生させるだけではなく、キリストを信じる者の内に住まわれる(第一コリント6:19、ローマ8:9−11)。そして、私たちを清め、教え、導き、助け、強めて下さる。
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連合の信仰告白:聖書
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1.聖書は神の言葉である
2.聖書は誤りのない神の言葉である
3.聖書は唯一の規範である
私たちは、旧新約聖書は、神の霊感を受けて書かれた神の言葉であって、原典において無謬であり、また絶対的権威を持ち、信仰と実践の唯一の規範であることを信じます。
聖書ほど多くの人に読まれ、広く影響を与えた書は外にない。ヨーロッパやアメリカの文化や文学は聖書の知識がないと理解が難しい。最近ではアジア・アフリカ世界でも聖書は超ベスト・セラーとなっている。
聖書とは一体何であるのか。それは古くから多くの学者によって論じられてきた。私たちは、聖書は単なる歴史的文書ではなく、誤りのない神の言葉であると信じている。さて、前述の告白は、大きく三つの部分に分けることができる。
1.聖書は神の言葉である
私たちが聖書と言うとき、それは〈旧新約聖書〉のことであり、六十六巻の文書によって構成されている。ユダヤ教は旧約聖書だけを正典とし、カトリック教会は外典を加える。しかし、私たちは、旧新約聖書六十六巻を正典とし、旧約聖書と新約聖書を等しく尊重する。それらは、全体として神のみ心を表し、神の救いの歴史を示している。旧約聖書はキリストの救いを予言し、新約聖書はその成就であると言われているように、旧新約聖書はキリストを中心とした有機的な関係にある(マタイ5:18、ヨハネ5:39、ルカ24:44、ローマ3:31)。
聖書は、神の霊感を受けて書かれた神の言葉である。〈霊感〉という言葉は、聖書が神の霊によって書かれたことを表している(第二テモテ3:16、第二ペテロ1:21)。
つまり、聖書の著者たちは、神の霊に導かれて書いたのである。彼らはそれぞれの時代の状況の中で自由に書いたが、それは神の霊の深い感動と導きによっていた。
この聖書の霊感について諸説がある。著者の自由な意志と人格とを認めない機械的霊感説、言葉を軽視した思想霊感説、宗教的真理は霊感されているが科学的には誤りがあるという部分的霊感説等である。私たちは、それらの説は採らないで、聖書はそのすべての言葉において完全に霊感された神の言葉であると信じている。
〈神の言葉〉というとき、そこには微妙で重要な意味が秘められている。それはまず、人間の言葉で書かれていることを否定するものではない。聖書はすべてそれぞれの時代の中でそれぞれの民族の言葉(ヒブル語、アラム語、ギリシャ語等)で書かれた。それらはすべて人間の言葉であり、読む者はだれでも理解することができる。それにもかかわらず神の言葉であるというのは、神の霊感によって書かれ、神の真理を啓示しているからである。
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2.聖書は誤りのない神の言葉である
聖書には誤りがあるのか。それは、古くから問われ、今日でも激しく論じられていることである。これまで、旧約聖書における年代や地名に誤りがあるという指摘から始まり、福音書の記事には矛盾があり、科学的に誤りがあるという主張が繰り返し行われてきた。つまり、聖書は宗教的には真理であるかもしれないが、歴史的・科学的には多くの誤りがあるというのである。
それに対して、私たちは、聖書は誤りのない神の言葉であると告白する。〈誤りがない)と言うとき、そこには二重の意味がある。第一は一般に不可謬性と言われるもので、神の本質のゆえに霊感された聖書には誤りがあり得ないという主張である。
神は本質的に偽ることのない方であり(民数記23:19、ローマ3:4)、主イエスも「あなたのみことばは真理です」(ヨハネ17:17)と言われた。第二は無誤性と言われるもので、聖書は人間の言葉で書かれるとき、実際に誤りがないように聖霊によって守られたという意味である。
私たちは、聖書は〈原典において無謬である)と、信じている。この〈原典)は、原著者たちによって書かれたもので、それらは今日存在していない。私たちの手もとにあるのは、それのおびただしい写本及び多くの訳本である。写本には絶対誤りがないと言うことはできないが、本文決定に問題となる写本間の相違はせいぜい0.2%程度にすぎないと言われている(ロバート・ティク・ウイルソン、ウエストコツトとホルト)。従って写本は原典の内容をほとんどそのまま正確に伝えていると考えることができよう。
私たちが実際に読んでいるのは、日本語訳の聖書であり、最近では多くの種類の訳本が出ているが、聖書学や翻訳の技術は目覚ましく進歩しており、さらに聖霊の働きのゆえに十分信頼して読むことができる。健全な知識と鋭い批判も大切であるが、神の言葉に対する絶対の信頼をもって聖書を読むことはもっと重要である。
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3.聖書は唯一の規範である
私たちは、聖書の絶対的権威を信じている。主イエス・キリストは聖書の絶対的権威を固く信じておられ、絶えず神の言葉によって答え、教えられた(マタイ4:1-11、5:17-48)。私たちも、自分の知識や体験によるのではなく、いつも聖書の権威によらなければならない。聖書は神の真理であるゆえに、人間に対して絶対的権威を持っているのである。宗教改革者たちは、世俗化した教会の権威に対して、聖書の権威を強く主張した。聖書の権威は、宗教改革運動の基本原理であった。聖書は教会において正典として形成され、教会は聖書の権威に基づいており、本質的には、決して矛盾対立するものではないが、宗教改革の時代は世俗化した教会の権威と厳しく対立して説かれたのである。宗教改革者たちは、聖書の権威を主張しただけでなく聖書の注解と聖書的説教に力を注いだ。聖書に基づく生活を強調し、聖書を信仰と生活の唯一の規範として重んじた。ウエストミンスター信仰告白を始め多くの信仰告白は、聖書を「信仰と実践の唯一の規範である」と告白し、私たち教会連合もその信仰告白に従っている。
〈信仰と実践の唯一の規範〉は、具体的にはどのようなことを意味しているのであろうか。まず、聖書は信仰の唯一の規範であり、真実の神とその救いの業とに関する教えとを示している。次に、聖書はキリスト者の実践つまり生活の規範でもある。ただ問題となるのは、〈信仰〉は絶対であっても〈実践〉は民族と時代において多様であることである。従って画一化した規範を説いているのではない(ガラテヤ2:14)。それは自由の福音の本質に矛盾する。むしろ〈実践の唯一の親範〉とは、教会生活と日常生活の基本的本質を聖書から学び、その本質的教えに従って生きることである。デオグネトスにあてた手紙の中に、キリスト者は「地に住むけれども、天の住民である。人の建てた法に従うけれども、彼らの生活は法よりも良い」と述べられているように、キリスト者の生活は法律や戒律から自由であるが、それらの基準より、はるかに優れている。
今日、私たちが努力しなければならないことは、聖書の健全な解釈とその健全な適用である。つまり、聖書が書かれた時代の状況を深く考えて解釈し、今日における健全な意味を悟るようにしなければならない。
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連合の信仰告白:序
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わたしたちの信仰
(信仰告白解説)
私たち日本バプテスト会連合は、すばらしい信仰の遺産を継承し、優れた信仰告白を持っている。その信仰告白がさらに多くの教会員に読まれ、福音の宣教と教会の成長の力となるように切望し、簡単な解説を付けて出版することになった。これをすべての教会が活用し、すべての信徒が熟読されるようにと願っている。
私たちの信仰告白は、聖書、三位一体の神、人間、教会、キリスト者の生活、聖礼典、負うべき責任、終末の八項目に及んでおり、穏健な内容である。
*解説文の内、色文字の部分が信仰告白本文の引用です。
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日本バプテスト教会連合連合について
守谷バプテスト教会は「日本バプテスト教会連合」(以下「連合」)という教派に属しています。ここでは連合の『信徒手帳』から、いくつかの情報をピックアップしてご紹介します。
*日本バプテスト教会連合以下のページの情報は『信徒手帳』(1998/10/1改訂、日本バプテスト教会連合)よりの転載です。著作権は日本バプテスト教会連合に属しています。
日本バプテスト教会連合のホームページ
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