赦しを願う祈り(9/16礼拝メッセージ)

「赦しを願う祈り」 マタイの福音書 6:9-13 .

6:9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

1.もっとも難しい祈り?
 9月は祈りをテーマに、主の祈りからお話しをしています。今日はその三回目です。

 以前ある方が、「主の祈りのこの部分を祈るのはとても難しい」と、言っておられました。賛美歌などに載っている文語体では、「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え」となっており、まず他の人を赦すことが、自分の赦しを願う条件のようにも受け取れます。

 今日読んだマタイの福音書の本文でも、「私たちも〜赦しました」は、すでに赦していますから、というニュアンスです。さらに、主の祈りの後、14-15節では、他人を赦さないなら自分も赦されない、とイエスは念を押しています。確かに、自分を赦してほしいと願う以上、まず自分が赦すべき、というのは道理と言えば道理です。

2.赦せないワケ
 ところが、わたしたちにとって人を赦すことはとても難しいという現実があります。それは、わたしたちは受けた負い目に対して、それ以上の償いを求めるからです。少し乱暴ですが、人から受けた物的・心的ダメージを数値化できるとと仮定しましょう。あなたが誰かから100のダメージを受けたとした場合、あなたは100の償いで赦せるでしょうか。おそらく120、150、200....を要求する、場合によってはいくら償いがなされても赦すことができないと感じるかもしれません。

 また、人は一旦赦したと思っても、それを忘れることがなかなか出来ません。赦したと言いながら、何かのきっかけでそれを蒸し返したりしてしまいます。ある教会で婦人会に対立があり、牧師が苦労して仲直りさせました。その時、一方がこう言ったそうです。「先生のご努力を無駄には出来ませんから、わたしはあの人を赦します。でも、先生、わたしはあの人がしたことは決して忘れません!」。

 人が人を赦すことは非常に難しい、いえ不可能ではないか、とすら思えるのです。とすれば、イエスが教えてくれたこの祈りは、やはり難しい、わたしたちには祈る資格がない、という結論になってしまいそうです。

3.赦される喜び、赦す幸い
 ルカの福音書7:36-50で、イエスの足を洗った女性と、その女性をさげすんでいたパリサイ人に向かって、イエスは神への愛と赦しについてたとえを通して語っています。イエスはこう言われました。「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません」。

 イエスの言葉にはちょっと面白いところがあります。「この女性は多く愛したので多く赦された」のですから、それの対立軸としてパリサイ人は、「少ししか愛さなかったので、少ししか赦されない」となるところ、パリサイ人については愛と赦しの順序が逆になっています。でも、むしろこれはこの女性の方を敢えて逆に表現し、パリサイ人の自覚を強調しています。自分が多く赦されている、という自覚なしには、神への愛は生まれません。

 マタイの福音書18:21-35では、何回まで赦すべきかとのペテロの質問に、イエスは七度を七十倍するまで(つまり何回でも)と答え、たとえ話をされました。とうてい返すこと出来ない借金を主人に免除してもらった男が、その帰り道、わずかな金を貸している男に出会いその首を絞めて返済を求めた、これを聞いた主人は怒りこの男を牢に投げ込んでしまった、という話しです。

 ペテロの質問は「何回まで赦すべきか」でしたが、イエスはたとえ話によって、ペテロ自身が神にどれだけ赦されているか、と視点を変えさせています。たとい人を何回赦そうとも、わたしたちが神によって赦された負い目の方が、はるかに大きいことに目を向けさせようとしているのです。

 借金のたとえで言うなら、わたしたちは国家予算にも匹敵する負い目を神によって、イエスの十字架によって赦されているのです。それを自覚するときに、それよりもうんと小さなわたしたちへの負い目を赦すことは、難しいどころか、当然なすべきことと思えてくるのです。

 ですから、神の赦しの深さ・大きさを自覚するとき、わたしたちは「赦しました」と祈ることができるのです。逆に言えば、赦せないときには、神の大きな赦しに目を向けるのです。イエスのたとえのあの男のように、自分が赦されていることを忘れてはいけません。

 この祈りは、わたしたちが赦せるかどうかの条件の上に立っているのではなく、神がまず赦してくださっている、人間同士の負い目はほんのわずかと思えるほどの、神への負い目をわたしたちは赦されてる、との自覚の上に立っています。神の大いなる赦しの恵みに目を向け、この祈りを心から祈りましょう。


「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」  マタイ 6:12

posted at 2006/9/19

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